徳川家康の子孫は、2026年現在も徳川宗家や徳川御三家につながる家系として受け継がれています。現在の徳川宗家第19代当主は徳川家広氏です。江戸幕府を開いた家康の血筋は、二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光へと続き、その後は尾張・紀伊・水戸の徳川家や御三卿など、複数の系統へ広がりました。
ただし、歴代将軍の地位と血縁関係は、必ずしも父から長男へ一直線につながっているわけではありません。養子縁組や分家からの継承もあり、家康の長男・松平信康や六男・松平忠輝のように、将軍家の主流とは異なる道をたどった子どもたちもいます。現在の子孫を正しく理解するには、家康の子ども一覧と家系図、宗家・御三家それぞれの歴史を分けて見ることが欠かせません。
【2026年最新】徳川家康の子孫は現在も続く?宗家第19代当主の実像

2026年現在、徳川家康の子孫を語るうえで中心となる人物が、徳川宗家第19代当主の徳川家広氏です。徳川記念財団の公式情報によると、家広氏は1965年生まれで、2023年1月に宗家の当主を継承しました。2021年6月からは公益財団法人徳川記念財団の理事長も務めています。
家広氏は慶應義塾大学経済学部を卒業後、米ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得。国連食糧農業機関(FAO)のローマ本部やベトナム支部で勤務し、その後、米コロンビア大学大学院で政治学修士号を取得しました。2000年の帰国後は、翻訳家・政治経済評論家として活動しています。
現在の徳川宗家は、江戸時代の将軍家が明治維新後も家として存続した系譜です。宗家の公式紹介では、初代家康から15代慶喜までが征夷大将軍を務め、明治維新後は16代家達、17代家正、18代恒孝を経て、19代家広へと当主が引き継がれています。
ここで注意したいのは、「第19代当主」という表現が、家康から19世代にわたって実父から長男へ途切れずに血縁が続いたという意味ではないことです。宗家の継承には、分家からの継承や養子縁組なども関わっています。家系を調べる際には、当主の代数と生物学的な親子関係を混同しないことが大切です。
また、徳川家康の末裔は宗家だけに限られません。家康の子どもたちが各地の大名家へ入り、さらにその子孫が婚姻や養子縁組を通じて他家へ広がったため、徳川姓を名乗っていない人々にも家康につながる系譜があります。ただし、現代の子孫全員の人数や個々の家族構成が公表されているわけではありません。
【家系図で整理】徳川家康から秀忠・家光へ続く将軍家の系譜
徳川将軍家の歴代系譜を理解する出発点は、家康の三男・徳川秀忠と、その子である三代将軍・徳川家光です。家康は1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府の基礎を築きました。その後、将軍職は秀忠へ引き継がれ、家光の代に幕府の統治体制がさらに整えられていきます。
家光は家康の孫に当たります。秀忠と正室・江(お江)の間に生まれた長男で、竹千代という幼名でも知られています。国立公文書館の展示解説では、弟の徳川忠長との間で後継者をめぐる問題が生じたことや、家康が竹千代を嫡子として明確に位置づけた経緯が紹介されています。
家康から秀忠、家光へというつながりは明確ですが、家光以降の将軍職がすべて父子間で連続したわけではありません。四代家綱、五代綱吉の後、将軍家の血縁関係は複数の枝へ広がり、紀州徳川家や御三卿などから後継者が迎えられるようになります。
家系図を簡略化すると、次のように整理できます。
- 徳川家康:江戸幕府初代将軍。徳川将軍家と御三家の祖。
- 徳川秀忠:家康の三男。江戸幕府二代将軍。
- 徳川家光:秀忠の長男。家康の孫で、三代将軍。
- 徳川家綱・徳川綱吉:家光の子どもたちから将軍職を継承した人物。
- 徳川吉宗:紀州徳川家から八代将軍となり、将軍家の継承を支える仕組みを整えた人物。
- 徳川慶喜:水戸徳川家に生まれ、一橋家への養子入りを経て十五代将軍となった人物。
この系譜から分かるのは、将軍家の歴史が単純な直系相続だけで成り立っていないことです。男子の早世や後継者不足が起きるたびに、徳川一門の別系統から人材が迎えられました。血縁の広がりと家の継承を区別すると、歴代将軍の交代が理解しやすくなります。
【子供一覧】徳川家康の11男5女と子孫の広がり
徳川家康の子どもは、一般に11人の男子と5人の女子、計16人とされています。母親は複数にわたり、子どもたちの生涯もさまざまです。将軍家を継いだ秀忠だけでなく、豊臣秀吉の養子となった結城秀康や、御三家の祖となった三人の男子など、それぞれの人生が徳川一門の勢力拡大に関わりました。
岡崎市観光協会の「家康公の子どもたち」では、家康の子どもたちの生涯や婚姻、藩主としての経歴が紹介されています。代表的な人物だけでなく、幼少期に亡くなった子どもたちも含めて整理すると、家康の家系がどのように形成されたのかが見えてきます。
男子11人
- 長男・松平信康:岡崎城主となった嫡男。1579年に自害。
- 次男・結城秀康:豊臣秀吉の養子となった後、結城家を継ぎ、越前松平家につながる系譜を残した。
- 三男・徳川秀忠:二代将軍。宗家の将軍継承の中心となった。
- 四男・松平忠吉:尾張清洲藩主。若くして亡くなり、後継者を残さなかった。
- 五男・松平信吉(武田信吉):武田家の名跡を継ぎ、水戸藩主となった後、若くして没した。
- 六男・松平忠輝:越後高田藩主となったが、1616年に改易された。
- 七男・松平松千代:幼くして亡くなった。
- 八男・松平仙千代:幼くして亡くなった。
- 九男・徳川義直:尾張徳川家の祖。
- 十男・徳川頼宣:紀州徳川家の祖。
- 十一男・徳川頼房:水戸徳川家の祖。
女子5人
- 長女・亀姫:奥平信昌に嫁いだ。
- 次女・督姫:北条氏直に嫁ぎ、その後、池田輝政に再嫁した。
- 三女・振姫:蒲生秀行に嫁ぎ、秀行の死後は浅野長晟に再嫁した。
- 四女・松姫:幼くして亡くなった。
- 五女・市姫:伊達政宗の子との婚約が伝わるが、幼くして亡くなった。
この一覧で重要なのは、子ども全員が徳川姓を名乗り、同じ家を継いだわけではない点です。秀康は結城家、信康は松平姓の時期を経ており、娘たちも婚姻によって他家へ入りました。家康の子孫を調べる場合、名前だけで追うと見落としが生じます。養子縁組、婚姻、家名の変更を合わせて確認する必要があります。
【御三家の子孫】尾張・紀伊・水戸の徳川家はどうつながる?
徳川御三家は、家康の九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房を祖とする三つの家です。尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家がそれぞれの系譜を形成し、将軍家を支える重要な役割を担いました。江戸東京博物館や徳川林政史研究所の解説でも、御三家が将軍家に近い血縁関係を持つ特別な家柄だったことが紹介されています。
三家の関係を整理すると、次のようになります。
| 家系 | 家康との関係 | 系譜上の主な特徴 |
|---|---|---|
| 徳川宗家・将軍家 | 三男・秀忠を中心とする系譜 | 江戸幕府の将軍職を継承。明治維新後も宗家として存続し、現在は第19代当主の徳川家広氏が継承。 |
| 尾張徳川家 | 九男・義直が祖 | 名古屋を拠点とした御三家の一つ。将軍後継者を出す資格を持つ家柄だったが、尾張家から将軍は出なかった。 |
| 紀州徳川家 | 十男・頼宣が祖 | 八代将軍・徳川吉宗や十四代将軍・徳川家茂を輩出した。 |
| 水戸徳川家 | 十一男・頼房が祖 | 水戸学の発展でも知られる。十五代将軍・徳川慶喜は水戸徳川家に生まれた後、一橋家に養子入りした。 |
| 御三卿 | 将軍家の血縁から派生した別系統 | 田安・一橋・清水の三家。将軍家の後継者不足を補う役割を担った。 |
御三家と混同されやすいのが、田安・一橋・清水の御三卿です。御三家が独立した大名家として領地を治めたのに対し、御三卿は江戸城内の屋敷を拠点とし、将軍家の後継者を確保するために整備されました。江戸東京博物館のレファレンス解説によると、田安家は1731年、一橋家は1740年、清水家は1759年に創設されています。
紀州徳川家からは吉宗が将軍となり、その後、吉宗の子孫につながる御三卿が将軍継承を支えました。水戸徳川家から生まれた慶喜も、幼少期に一橋家へ入ったことで、将軍職を継ぐ道が開かれています。徳川将軍家の歴史は、御三家と御三卿がそれぞれ役割を持ち、相互に補い合う仕組みの歴史でもありました。
【信康・忠輝の系譜】長男と六男の子孫はどうなった?
徳川家康の子孫を調べる際、特に関心を集めるのが長男・松平信康と六男・松平忠輝です。二人とも将軍家の主流とは異なる運命をたどりましたが、その家系をたどると、血縁と家名の継承が必ずしも一致しないことが分かります。
長男・松平信康の子孫
信康は1559年に生まれ、織田信長の娘・徳姫を妻としました。1579年、家康の命により自害し、21歳で生涯を終えています。信康の死後、家康は二人の孫娘、登久姫と国姫を自らのもとで養育しました。
国立公文書館の展示解説によると、登久姫は1589年に豊臣秀吉の仲介で小笠原秀政に嫁ぎ、国姫は本多忠勝の嫡男・本多忠政に嫁いでいます。信康の子どもたちは、徳川宗家を直接継ぐことはありませんでしたが、小笠原家や本多家など、別の家系へとつながりました。
ここで注意したいのは、信康の妻・徳姫と娘の登久姫を混同しないことです。織田信長の娘である徳姫は信康の妻であり、小笠原秀政に嫁いだのは信康の娘・登久姫です。人名が似ているため、家系図を読み違えやすい箇所です。
六男・松平忠輝の子孫
松平忠輝は1592年に生まれ、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚しました。越後高田藩主となりましたが、1616年に改易され、その後は各地に預けられました。上越市の歴史資料によると、忠輝は1683年に92歳で亡くなっています。
忠輝と五郎八姫の間に子どもはいなかったとする説明が一般的です。一方、忠輝には側室との間に徳松という子がいたとする記録も伝わっていますが、若くして亡くなったとされ、忠輝から現代まで続く確実な家系を示す材料は限られています。五郎八姫が密かに男子を産んだとする説もありますが、広く確認された確定史実として扱うことはできません。
このように、家康の子どもであっても、全員の系統が同じように現代まで続いているわけではありません。信康の娘たちのように他家へ血縁が広がった例もあれば、忠輝のように後継者をめぐる記録が複雑な例もあります。子孫を調べる際には、子どもがいたかどうかだけでなく、その後の婚姻、家督相続、家系の継続まで追うことが必要です。
【家系の実態】徳川家康の末裔を調べるときの誤解と注意点
「徳川家康の末裔」という言葉には、少なくとも三つの意味があります。家康の血を引く人物、徳川宗家の当主、そして御三家など徳川一門の家を継承する人物です。この三つは重なる部分がありますが、必ずしも同じではありません。
第一に、徳川宗家の当主は家康を祖とする家の継承者ですが、代数だけで直接の親子関係を判断することはできません。第二に、徳川御三家や御三卿の系譜は宗家とは別の枝に当たり、将軍家との血縁や養子縁組を通じてつながっています。第三に、家康の娘や男子の婚姻によって、徳川姓を名乗らない家系にも血縁が広がっています。
したがって、名字が徳川だから必ず家康の直系子孫である、あるいは徳川姓ではないから家康と関係がない、と単純に判断することはできません。系図を確認する際は、誰の子として記録されているか、養子縁組があったか、どの家の家督を継いだかを区別する必要があります。
歴史資料を確認する際には、徳川記念財団の宗家紹介、国立公文書館の展示資料、自治体や博物館の人物解説などが手掛かりになります。特に、江戸時代の系譜をまとめた『寛政重修諸家譜』は、大名・旗本の家系を調べるうえで重要な史料です。ただし、後世に編纂された系譜であるため、個別の人物については複数の記録を照らし合わせることが有効です。
2026年現在の徳川家康の子孫を知りたい場合は、まず宗家第19代当主・徳川家広氏を起点に、宗家の継承史を確認する方法があります。加えて、御三家や御三卿、信康や忠輝のような個別の子どもたちの系譜を分けて調べることで、家康の血縁がどのように広がったのかをより正確に理解できます。
【徳川家康子孫】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳川家康の子孫は2026年現在もいるのですか?
A1:はい。徳川宗家は現在も継承されており、第19代当主は徳川家広氏です。また、家康の子どもたちを祖とする徳川一門の系譜もあります。ただし、現代の子孫全員の人数や家族構成が公表されているわけではありません。
Q2:徳川家康の孫である徳川家光は、家康から何代目に当たりますか?
A2:家光は家康の孫で、三代将軍です。家康が初代、秀忠が二代、家光が三代という順番になります。ただし、将軍の代数は当主の継承順を示すもので、家系のすべてが実父から長男への相続だったわけではありません。
Q3:徳川家康の長男・信康や六男・松平忠輝にも子孫はいるのですか?
A3:信康には登久姫と国姫という二人の娘がおり、それぞれ小笠原家と本多家に嫁いでいます。忠輝については、正室・五郎八姫との間に子どもはいなかったとする説明が一般的ですが、側室との子に関する記録もあります。両者の系譜は、宗家の将軍継承とは分けて確認する必要があります。
徳川家康の子孫は、2026年現在も宗家や徳川一門の系譜を通じて歴史的に受け継がれています。現在の徳川宗家第19代当主は徳川家広氏で、家康から秀忠、家光へと続く将軍家の歴史は、御三家や御三卿の成立、養子縁組、分家からの継承などによって複雑に広がりました。
家康の子どもは11男5女とされ、その中から秀忠や御三家の祖となった義直・頼宣・頼房が重要な系譜を形成しました。一方、長男の信康や六男の忠輝など、将軍家の主流とは異なる人生を歩んだ人物もいます。彼らの子孫をたどるには、家名だけでなく、婚姻や養子縁組を含めた記録を確認することが欠かせません。
徳川家康の末裔を調べるときの判断基準は、次の三点です。第一に、宗家の当主としての継承と血縁上の直系を区別すること。第二に、御三家・御三卿などの分家を宗家と混同しないこと。第三に、人物の子孫を調べる際は、信頼できる公的資料や系譜を照合することです。
徳川家康の家系図は、単なる親子関係の一覧ではありません。江戸幕府を長く維持するために築かれた一門の仕組みと、時代の変化に応じて家を受け継いできた歴史そのものです。宗家・御三家・御三卿それぞれの役割を押さえることが、現在まで続く徳川家康の子孫を理解する最も確かな手掛かりになります。
主な参照資料:公益財団法人徳川記念財団、徳川家広氏の公式プロフィール、国立公文書館、岡崎市観光協会、江戸東京博物館、徳川林政史研究所、上越市の歴史資料。