ロックシンガー、俳優として知られる吉川晃司さんには、もう一つの顔があります。それが、学生時代に全国トップクラスの実績を残した元水球選手という経歴です。広島の名門・修道中学校、修道高等学校で水球に打ち込み、U-20日本代表に選抜されたほか、全日本高校最優秀選手にも2年連続で選ばれました。
音楽の道へ進んだ後も、水球との縁は途切れていません。2016年には男子日本代表「ポセイドンジャパン」の公式応援ソング「Over The Rainbow」を制作。2024年には日本水泳連盟の水球委員に就任し、2026年7月には愛知・名古屋アジア大会の組み合わせ抽選会にも出席しました。吉川晃司さんが水球を始めた理由、高校時代の実績、歌手への転身、そして現在の活動まで、本人の証言や母校の記録、報道資料をもとに詳しく解説します。
【原点】吉川晃司が水球を始めた理由とは?修道中学時代の意外な出会い

吉川晃司さんの水球人生は、本人が最初から競技者を目指して始めたものではありません。きっかけは、広島県にある修道中学校での何気ない出来事でした。
日刊スポーツのインタビューで、吉川さんは中学時代を振り返り、暑い日にプールへ入っていたところ、上級生の主将に声をかけられ、水泳班に入ることになったと語っています。本人の回想では、入部を強く希望していたというより、先輩に誘われてそのまま参加することになったという経緯でした。
修道中学校・修道高等学校では、一般的な学校の部活動を「班」と呼び、水泳班は競泳ではなく水球を中心に活動しています。吉川さんが所属したのは、全国大会で優勝経験を持つ伝統あるチームでした。
修道学園創始300周年記念サイトに掲載された、田原俊典校長との対談では、吉川さん自身が顧問の種田豪先生の熱心な指導を振り返っています。同校の水泳班は1969年と1970年に日本高等学校選手権水泳競技大会で2年連続の全国優勝を果たしており、吉川さんが所属していた時代にも有力な選手がそろっていました。
厳しさを物語るのが、練習時間です。吉川さんによれば、長期休暇中は朝から晩まで練習し、泊まり込みの指導では1日14時間ほど水球に取り組むこともあったそうです。冬場には早朝や夜間に冷たい水の中で練習することもあり、当時はつらさを感じながらも競技に打ち込んでいました。
水球は、水面に浮かびながら泳ぐ、ボールを扱う、相手と競り合うという複数の動作を同時に求められる競技です。泳力だけでなく、持久力、瞬時の判断、身体の使い方、チームとの連携が必要になります。こうした環境で鍛えられたことが、吉川さんの身体能力や負けん気を育てた背景にあります。
また、当時の吉川さんは水球だけに集中していたわけではありません。水泳班の同級生に誘われてバンド活動にも参加し、ボーカルを担当。母校の対談では、アマチュアバンドながら約800人収容のホールを満員にした経験も明かしています。厳しいスポーツと音楽活動を並行していた高校時代は、後のアーティスト人生につながる重要な時期でした。
【高校時代の実績】U-20日本代表・世界ジュニア水球選手権・全日本高校最優秀選手
吉川晃司さんの水球経歴が注目される最大の理由は、芸能界に入る前から、すでに全国レベルの実績を残していたことです。単に水球経験があるというだけではなく、若くして世代別の日本代表選考に進み、高校水球界でも高い評価を受けていました。
修道学園の公式記念対談では、高校1年生の時にU-20日本代表の選抜に選ばれたと紹介されています。一方、日刊スポーツの過去のインタビューでは、U-20の最年少選手として海外遠征に出たのは高校2年生の時と説明されています。選抜時期と遠征時期を分けて捉えると、吉川さんが高校時代の早い段階から世代別代表の有力選手として活動していたことが分かります。
当時の実績には、世界ジュニア水球選手権大会の日本代表選出も含まれます。加えて、全日本高校最優秀選手には1981年、1982年と2年連続で選ばれました。歌手デビュー以前に、競技者として確かな評価を得ていたことを示す記録です。
主な経歴を整理すると、次のようになります。
| 時期 | 水球に関する出来事 | 実績・背景 |
|---|---|---|
| 中学時代 | 修道中学校の水泳班で水球を始める | 先輩や指導者のもとで競技に打ち込む |
| 高校時代 | U-20日本代表に選抜 | 20歳以下の世代別代表として高く評価される |
| 高校時代 | 世界ジュニア水球選手権大会の日本代表に選出 | 海外の選手と競技する経験を得る |
| 1981年・1982年 | 全日本高校最優秀選手に選出 | 2年連続で高校水球界の最優秀選手として評価される |
| 高校時代後半 | 水球とバンド活動を並行 | その後、音楽の道へ進むことを決断 |
| 1984年 | シングル「モニカ」で歌手デビュー | 水球選手からシンガーソングライターへ転身 |
| 2016年 | 「Over The Rainbow」を制作 | リオデジャネイロ五輪に臨む男子日本代表の公式応援ソングに |
| 2024年5月 | 日本水泳連盟の水球委員に就任 | 競技の広報や選手支援に関わる |
| 2026年7月23日 | 愛知・名古屋アジア大会の組み合わせ抽選会に出席 | 水球男子日本代表への応援を呼びかける |
ここで押さえておきたいのは、「U-20日本代表」と「成人の男子日本代表」は同じ意味ではないという点です。吉川さんが選ばれたのは、20歳以下の世代別代表です。世界ジュニア水球選手権大会への出場歴と合わせて、若い世代の日本を代表する選手だったと理解するのが正確です。
また、吉川さんの高校時代の写真は、当時の姿を知る資料としても話題になっています。日刊スポーツのインタビュー記事では、高校時代の写真が紹介され、競技に打ち込んでいた頃の体格や雰囲気を確認できます。母校にも当時の写真や記録が残されており、修道学園の記念対談では学校の歴史を伝える資料として触れられています。
【なぜ歌手に転身した?】水球で世界の壁を知った吉川晃司の決断
高校水球界で実績を残した吉川晃司さんは、なぜ競技を続けずに音楽の道へ進んだのでしょうか。その理由を知るうえで重要なのが、U-20日本代表として経験した海外遠征です。
修道学園の記念対談で吉川さんは、エジプトやイタリアへの遠征で世界との実力差を痛感したと振り返っています。高校生の段階で代表に選ばれたことで自信を持っていた一方、海外には想像を超える体格と技術を備えた選手がいたといいます。その経験から、水球選手として将来どこまで進めるのか、先のビジョンを描けなくなったと説明しています。
帰国後もしばらくは水球を続けていましたが、以前のようなモチベーションを保つことが難しくなりました。そこで浮かび上がったのが、もう一つの情熱である音楽でした。
吉川さんは高校時代からバンドでボーカルを務めており、演奏場所を確保するため、仲間と新聞配達やアルバイトをして費用を捻出していたことも母校の対談で明かしています。音楽は、芸能界に入る直前に突然始めたものではなく、水球と並行して続けてきた活動だったのです。
音楽の道を選ぶ際には、運動神経やリズム感、そして美術への関心も自分の強みとして考えたと語っています。高校を中退して上京し、芸能事務所の渡辺プロダクションに自分を売り込む手紙を送ったことも、本人が明かしているエピソードです。
1984年、吉川さんはシングル「モニカ」で歌手デビュー。その後、「LA VIE EN ROSE」「KISSに撃たれて眠りたい」などの楽曲で知られるようになり、1988年には布袋寅泰さんとのユニットCOMPLEXでも活動しました。
水球の実績がそのまま歌手としての成功を保証したわけではありません。しかし、長時間の練習を耐え抜いた経験、世界との差を突きつけられた経験、そして自分で道を切り開こうとする姿勢は、音楽の世界に進む際にも本人の土台になったと考えられます。
水球を辞めたことは、競技との縁を完全に断ち切ることではありませんでした。むしろ、現役選手としての道を離れた後も、競技を深く理解する立場から日本の水球を支えるという、別の関わり方につながっていきます。
【Over The Rainbow】吉川晃司とポセイドンジャパンを結んだ応援ソング
吉川晃司さんと水球の関係が広く知られる転機になったのが、2016年のリオデジャネイロ五輪です。男子日本代表「ポセイドンジャパン」の公式応援ソングとして、吉川さんが「Over The Rainbow」を書き下ろしました。
ポセイドンジャパンは、水球男子日本代表の愛称です。日本代表はリオ五輪で、1984年のロサンゼルス大会以来、32年ぶりとなる五輪出場を果たしました。日刊スポーツや音楽メディアの報道によると、吉川さんは同年5月に横浜市内で行われた代表チームの公開練習を訪問。大本洋嗣監督や選手たちから応援曲の制作を依頼され、これを快諾しました。
「Over The Rainbow」は、単に著名な歌手がスポーツチームに楽曲を提供したというだけの企画ではありません。吉川さん自身が水球の厳しさや魅力を知り、世界の強豪と戦う選手たちの立場を理解していたからこそ、競技への思いを込められる仕事でした。
日刊スポーツの報道では、吉川さんは水球の美しさを歌詞に反映させようと考え、水とのつながりを意識して「Rainbow」という言葉を選んだと説明しています。選手たちには、自分たちらしく戦ってほしいというメッセージも送っていました。
同年7月には、ワーナーミュージック・ジャパンが「Over The Rainbow」をポセイドンジャパンの公式応援ソングとして紹介しています。楽曲は全国ツアーの合間を縫って制作され、8月のツアーファイナルで初パフォーマンスを行うことも発表されました。
この応援活動の意義は、吉川さんの知名度を競技の宣伝に生かした点だけではありません。競技経験者がアスリートの努力を理解したうえで発信することで、普段は水球を見ない音楽ファンにも競技の存在を届けられます。選手とファンの間をつなぐ役割を、音楽という自分の専門分野で果たしたのです。
その後も吉川さんは、東京五輪やパリ五輪に向けた水球日本代表の応援に関わりました。2024年6月のパリ五輪壮行会では、吉川さんが監督を務める水球ドリームチームと男子日本代表チームが対戦する企画も実施されました。現役時代の経験を持つ歌手が、競技の外側から選手を支援する姿勢は、2016年の応援ソング制作から一貫しています。
【現在の水球との関わり】日本水泳連盟の水球委員として選手を支援
吉川晃司さんの水球との関係は、応援ソングを制作した2016年だけのものではありません。2024年5月には、公益財団法人日本水泳連盟の水球委員に就任しました。吉川さんの公式サイトや日本水泳連盟の発表では、競技の広報活動や選手支援に取り組むことが紹介されています。
水球委員としての役割は、現役選手として試合に出場することとは異なります。競技を知る立場から水球の魅力を伝え、ファン層を広げ、選手が競技に集中できる環境を支えることが期待される活動です。長年の芸能活動で培った発信力を、水球界に還元する形といえます。
2024年6月14日に千葉県国際総合水泳場で開かれたパリ五輪壮行会では、吉川さんが水球ドリームチームの監督を務めました。吉川さんが率いたチームには、海外のオリンピアン3人、代表OBのオリンピアン6人、日本代表候補4人が参加。男子日本代表と対戦する特別な企画となりました。
吉川さんは当時、監督として「勝ちに行きます」と意気込みを示し、代表選手たちに世界のベスト8入りを目指してほしいとエールを送りました。競技の経験者としての視点と、音楽・芸能の世界で活動してきた立場の両方を生かした取り組みです。
一方で、現在も現役の水球選手として活動しているわけではありません。日刊スポーツのインタビューでは、以前は水球をする機会がなくなったものの、プールで泳ぐことは続けていると語っていました。母校の記念対談でも、年間250〜300日は泳いでいると話しています。
水球と水泳は同じ水中競技でも、求められる技術や試合形式は異なります。現在の吉川さんについては、競技者としての現役復帰よりも、日々の水泳習慣と水球界への支援活動を分けて理解するのが適切です。
また、修道学園の対談では、歌手になった後も、仕事の壁にぶつかったときや悩みがあるときに広島へ帰り、母校のプールで過ごしていたと振り返っています。吉川さんにとってプールは、単なる練習場所ではなく、気持ちを整え、自分を見つめ直すための場所でもありました。
【2026年最新】吉川晃司はアジア大会でも水球日本代表を応援
2026年の水球関連活動として注目されるのが、7月23日に名古屋市内で行われた第20回アジア競技大会・愛知・名古屋大会のチーム競技組み合わせ抽選会です。TBS NEWS DIGの報道によると、吉川晃司さんは水球男子の抽選に参加し、日本代表のグループ分けを担当しました。
吉川さんが最初に引いた「日本」は、予選リーグのグループAに入り、カザフスタン、タイ、香港と対戦する組み合わせとなりました。男子日本代表は「ポセイドンジャパン」の愛称で知られ、2023年の杭州アジア大会では53年ぶりの金メダルを獲得。2026年大会では連覇を目指していました。
抽選会で吉川さんは、前回大会で優勝した日本代表が、開催国で迎える今回の大会でも優勝を目指していることを伝え、ファンに応援を呼びかけました。これは、現役時代に培った水球への思いが、2026年になっても続いていることを示す活動です。
日本水泳連盟の大会情報によると、2026年のアジア大会の水球競技は、女子が9月20日から24日、男子が9月26日から10月3日まで名古屋市総合体育館のレインボープールで開催されました。吉川さんの抽選会への参加は、その大会に向けて競技への関心を高める機会となりました。
ただし、ここで区別しておきたいのは、吉川さん自身が大会に選手として出場したわけではないということです。2026年の活動は、元U-20日本代表の経験と発信力を生かして、日本代表を応援し、水球を広く知ってもらう立場での参加です。
2016年に応援ソングを制作し、2024年には水球委員に就任、同年のパリ五輪壮行会ではドリームチームの監督を務め、2026年にはアジア大会の抽選会に出席。この流れを見ると、吉川さんと水球の関係は、一度きりの著名人による応援企画ではなく、長期にわたる継続的な関わりになっています。
【吉川晃司水球】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:吉川晃司は本当に水球の日本代表だったのですか?
A1:はい。高校時代にU-20日本代表に選抜され、世界ジュニア水球選手権大会の日本代表にも選ばれています。ただし、これは20歳以下の世代別代表であり、成人の男子日本代表として五輪に出場したという意味ではありません。
Q2:吉川晃司は修道高校時代にどのような実績を残しましたか?
A2:修道中学校・修道高等学校の水泳班で水球に打ち込み、U-20日本代表に選抜されたほか、全日本高校最優秀選手に1981年と1982年の2年連続で選ばれました。世界ジュニア水球選手権大会の日本代表歴もあります。
Q3:吉川晃司が水球を始めた理由は何ですか?
A3:本人の回想によると、修道中学時代、暑い日にプールへ入っていたところ、上級生の主将に声をかけられ、水泳班に入ったことがきっかけです。競技を始めてから水球の面白さに引き込まれ、厳しい練習を重ねるようになりました。
Q4:「Over The Rainbow」は水球とどのような関係がありますか?
A4:2016年のリオデジャネイロ五輪に臨む男子日本代表「ポセイドンジャパン」の公式応援ソングです。吉川さんが監督や選手からの依頼を受けて制作し、水球の美しさや選手へのエールを込めました。
Q5:吉川晃司は現在も水球をプレーしていますか?
A5:現役の水球選手として活動しているわけではありません。一方、本人は水泳を継続していると語っており、2024年5月には日本水泳連盟の水球委員に就任。競技の広報や選手支援にも関わっています。
Q6:吉川晃司は2026年に水球関連の活動をしましたか?
A6:2026年7月23日、愛知・名古屋アジア大会のチーム競技組み合わせ抽選会に出席し、水球男子日本代表の抽選に参加しました。大会ではポセイドンジャパンが連覇を目指しており、吉川さんも日本代表への応援を呼びかけました。
吉川晃司さんの水球経歴を振り返ると、修道中学・高校での厳しい練習、U-20日本代表への選抜、世界ジュニア水球選手権大会への出場、全日本高校最優秀選手への2年連続選出と、歌手デビュー以前から高い競技実績を持っていたことが分かります。
その一方で、海外遠征で世界との差を実感したことが、水球選手としての将来を見直す契機になりました。音楽という別の道を選んだ吉川さんは、1984年に「モニカ」でデビューし、ロックシンガーや俳優として活躍するようになります。
しかし、水球との縁は切れませんでした。2016年には「Over The Rainbow」でポセイドンジャパンを応援し、2024年には日本水泳連盟の水球委員に就任。パリ五輪の壮行会では水球ドリームチームの監督を務め、2026年7月にはアジア大会の組み合わせ抽選会にも参加しました。
吉川晃司さんと水球の関係を理解するうえで大切なのは、過去の代表歴と現在の支援活動を混同しないことです。現在の吉川さんは現役の水球選手ではありませんが、競技経験者としての知識と影響力を生かし、日本の水球を応援する活動を続けています。
高校時代の実績だけでも十分に異色の経歴ですが、さらに興味深いのは、競技から離れた後も水球を自分の人生の一部として大切にしている点です。吉川晃司さんにとって水球は、過去の栄光にとどまらず、音楽活動と並行して現在まで続く大切なつながりなのです。