invisible hit counter
ホーム 芸能人プロフィール・現在 把瑠都凱斗の現在は?初優勝から大関陥落・引退、政治家転身まで徹底解説

把瑠都凱斗の現在は?初優勝から大関陥落・引退、政治家転身まで徹底解説

土谷 亮平 土谷 亮平 • 更新: • 公開: • 読了約 15 分
目次

元大関・把瑠都凱斗(ばると・かいと)は、圧倒的な体格と豪快な相撲で大相撲ファンを魅了した、エストニア出身の元力士です。2012年1月場所では14勝1敗で幕内最高優勝を果たし、外国出身力士として横綱昇進への期待を集めました。しかし、度重なる故障によって大関から陥落し、2013年9月には28歳で現役を引退しています。

その後は格闘家、実業家、タレント、政治家と活動の幅を広げました。2026年現在の肩書きや政治家としての経歴、本名カイド・ホーヴェルソンの読み方、四股名の由来、妻エレナとの結婚、そして大関陥落から引退に至った経緯まで、日本相撲協会やエストニア議会の公開情報、当時の報道をもとに整理します。

【把瑠都凱斗とは】本名・四股名の由来と相撲との出会い

把瑠都凱斗

把瑠都凱斗は1984年11月5日生まれ。エストニアのラクヴェレ出身で、本名はカイド・ホーヴェルソン(Kaido Höövelson)です。身長198センチ、体重189キロという恵まれた体格を生かし、右四つからの寄りや投げを得意としました。

日本相撲協会の公式プロフィールによると、2004年5月場所で初土俵を踏み、2006年5月場所に新入幕、2010年5月場所に大関へ昇進しています。エストニア出身として初めて大相撲の土俵に上がった力士であり、欧州出身の力士が日本の相撲界で頂点を目指す道を切り開いた存在の一人です。

四股名の「把瑠都」は、母国エストニアが面するバルト海にちなんだ名前です。「凱斗」は本名のカイドという音を踏まえたもので、日本で素晴らしいものをつかみ、母国に凱旋してほしいという願いが込められています。当時の三保ヶ関親方(元大関・増位山)が名付けたと、当時の報道でも紹介されました。

つまり、四股名には出身地とのつながりと、日本で成功してほしいという期待の両方が表れています。単に外国出身であることを示す名前ではなく、本人のルーツと角界での将来を重ね合わせたものだったのです。

では、把瑠都が相撲を始めたきっかけは何だったのでしょうか。

伝えられているエピソードによると、相撲との出会いは少年時代にさかのぼります。国際相撲連盟の関係者が地元を訪れて子どもたちに相撲を指導した際、初めて相撲を体験する子どもたちの中で、把瑠都少年は力と力がぶつかり合う勝負に強い興味を示したといいます。

本人も当時を振り返り、「何で裸になるんだろうと思ったけど、力と力の勝負が本当に楽しかった。今思えば、これも運命でしょう」と語ったと伝えられています。その後はエストニアの相撲道場「SAKURA」などで経験を積み、日本でプロの力士になる道へ進みました。

日本への入門を支えたのも、こうした国際的な相撲交流のつながりでした。把瑠都の成功は、本人の身体能力や努力だけでなく、日本とエストニアを結んだ相撲関係者の協力によって実現した側面もあります。

【経歴年表】初土俵から大関昇進、政治家への転身まで

把瑠都の経歴を振り返ると、短期間で番付を駆け上がった力士時代と、引退後に活動領域を広げた時期に大きく分けられます。日本相撲協会の公式プロフィール、当時のスポーツ報道、エストニア議会の公開記録をもとに、主な転機をまとめました。

時期 主な出来事 経歴上の意味
1984年11月 エストニアで誕生 本名はカイド・ホーヴェルソン
2004年5月 大相撲で初土俵 三保ヶ関部屋に入門
2006年5月 新入幕 幕内力士として活躍を始める
2010年5月 大関昇進 最高位の大関に到達
2012年1月 幕内最高優勝 14勝1敗で初優勝
2012年11月 大関から陥落 2場所連続の負け越しが響く
2013年9月 現役引退 左膝の故障から回復できず
2018年 エストニア中央党に加入 政界進出への足掛かりとなる
2019~2023年 エストニア国会議員を務める 帰国後、政治の分野でも活動
2025年 日本との交流や格闘技関連の活動 元力士として幅広い分野で活動

日本相撲協会の記録では、把瑠都の生涯戦歴は431勝213敗102休。幕内では330勝197敗88休を記録し、幕内最高優勝1回のほか、十両優勝3回などの実績を残しています。

大関昇進は2010年5月場所。初土俵からわずか6年ほどで相撲界の最高位に次ぐ地位まで上り詰めました。恵まれた体格を生かした力強い相撲に加え、上手投げや寄り切りなどを武器に、横綱候補としても注目されました。

引退後の転身も特徴的です。格闘技や芸能活動、実業家としての仕事に取り組んだ後、2018年にはエストニア中央党に加入。2019年から2023年にかけて国会議員を務めました。日本で培った経験や人脈を、母国での活動に生かそうとした歩みが見えてきます。

【2012年初場所】14勝1敗で幕内初優勝、横綱挑戦への期待

把瑠都の現役時代を象徴する出来事が、2012年1月場所の幕内最高優勝です。大関として迎えたこの場所では、初日から圧倒的な強さを見せ、白星を積み重ねました。力強い立ち合いと前に出る相撲で相手を圧倒し、優勝争いの主役となります。

転機となったのは13日目でした。優勝を争っていた横綱・白鵬が敗れたことで、把瑠都の幕内初優勝が決定します。14日目も勝利し、千秋楽には全勝優勝を懸けて白鵬と対戦しましたが、最後は敗れました。

それでも成績は14勝1敗。初土俵から積み上げてきた努力が、幕内最高優勝という形で結実した瞬間でした。日本相撲協会も、2012年1月場所の把瑠都について14勝1敗での優勝を公式に記録しています。

優勝インタビューでは、母親や妻の喜ぶ姿を前に涙を流し、母親への感謝を語ったことも印象的でした。「お母さんが生まれていなかったら、私はここにはいない。産んでくれてありがとう」という趣旨の言葉は、異国の地で相撲に打ち込んできた歩みを感じさせるものでした。

この優勝によって、把瑠都は横綱昇進を目指す立場となります。翌3月場所は綱取りの場所として注目されましたが、成績は10勝5敗。横綱昇進には届きませんでした。

ここで押さえておきたいのは、優勝実績と横綱昇進は別の評価であるという点です。幕内優勝はその場所で最も優れた成績を残した力士に与えられる一方、横綱昇進には継続的な成績や相撲内容が大切です。把瑠都は頂点に手が届くところまで迫りましたが、その後は故障によって本来の力を発揮することが難しくなっていきました。

【大関陥落と2013年引退】2場所連続負け越しと左膝の重傷

把瑠都の大関陥落は、2012年の故障と休場が直接的な背景にあります。2012年9月場所では右足親指の剥離骨折などの影響で途中休場。大関の地位を維持するために重要な場所で負け越しとなり、翌11月場所は大関の地位を守るために勝ち越しが必要な「角番」で迎えました。

ところが、11月場所でも左太もも裏の肉離れに見舞われ、途中休場します。これにより2場所連続の負け越しとなり、大関から陥落しました。大関は通常の番付とは異なる特別な地位で、角番で負け越した場合、翌場所も負け越すと陥落する仕組みです。

つまり、大関陥落は不祥事や本人の意思によるものではなく、故障によって相撲を取り続けられず、必要な勝ち星を確保できなかったことが原因でした。

2013年1月場所では関脇として大関復帰を目指しました。関脇で10勝以上を挙げれば大関に復帰できる特例がありましたが、把瑠都は13日目に6敗目を喫し、復帰の可能性が消滅します。

その後も故障は続きました。2013年5月場所7日目の稀勢の里戦で左膝を負傷し、前十字靱帯および半月板の損傷と診断されます。7月場所は全休。9月場所では東十両3枚目まで番付を下げました。

当時の日刊スポーツやデイリースポーツの報道によると、左膝の状態は深刻で、十分な負荷をかけて稽古を続けられる状況ではありませんでした。2013年9月11日、把瑠都は日本相撲協会に引退届を提出。28歳で現役生活に幕を下ろします。

引退会見では、けがが治らず土俵に立てないことへの悔しさを語りました。引退の決定的な理由は、年齢やタレント活動への転身ではなく、左膝の重傷と回復の見通しが立たなかったことです。

最高位の大関まで上り詰め、幕内優勝も経験した力士が、故障によって短期間で十両まで番付を下げ、引退を余儀なくされた。この急激な変化こそ、把瑠都の現役生活を振り返るうえで欠かせないポイントです。

【妻エレナとの結婚と現在】実業家・タレント・元国会議員としての歩み

把瑠都は2009年2月、ロシア出身の2歳年上の女性と結婚しました。報道などではエレナ夫人として紹介されています。日本相撲協会の公式プロフィールには私生活の詳細は掲載されていませんが、エストニア議会の公式プロフィールでは、家族欄に既婚であることと息子がいることが記されています。

2012年1月場所の優勝インタビューでは、母親や妻の喜びに触れ、感謝の気持ちを表しました。現役時代の華やかな成績だけでなく、異国での生活を支える家族の存在も、本人にとって大きな意味を持っていたことがうかがえます。

引退後は、相撲界に残るのではなく、複数の分野で新たなキャリアを築いていきました。総合格闘技の試合に出場したほか、芸能活動にも取り組み、日本のテレビ番組やイベントなどで元大関としての知名度を生かしてきました。

エストニアの公共放送ERRは、2013年の引退を伝えた際、左膝のけがが深刻化していたことと、本人が相撲普及への関わりを続ける意向を示していたことを報じています。日本で築いた経験や人脈は、引退後の活動にもつながりました。

政治の分野に進んだのは2018年です。把瑠都はエストニア中央党に加入し、翌2019年から国会議員を務めました。エストニア議会の公式プロフィールでは、議員としての在任期間は2023年4月1日までとされています。したがって、2026年現在は現職国会議員ではありません。

政治家としての経歴には、スポーツ選手として国際的に活動した経験が反映されています。日本での長い生活を通じて培った文化理解や人的ネットワークは、母国で日本との交流やビジネスを考える際にも生かしやすい強みです。エストニア中央党への加入時には、同党側からも日本での経験がエストニア企業の事業機会につながることへの期待が示されました。

2025年4月には、在エストニア日本国大使館が、元国会議員のカイド・ホーヴェルソン氏を大使公邸に招き、引退後の活動や二国間関係などについて意見交換したと公表しています。同大使館は、エストニアや欧州での相撲普及、日本とのつながりを維持していることにも言及しました。

また、2025年には格闘技イベント「BreakingDown16」に出場したことも日本の報道で取り上げられました。引退後も格闘技やメディアへの出演など、元大関としての存在感を発揮する機会があります。

2026年の現在地を整理すると、把瑠都は「元大関」「元エストニア国会議員」「実業家」「タレント」という複数の経歴を持つ人物です。ただし、政治家としてはすでに議員の任期を終えており、現職の国会議員として活動しているわけではありません。現在の具体的な仕事や日々の生活については、公開情報だけではすべてを把握できませんが、日本とエストニアを結ぶ交流や相撲普及とのつながりは、引退後も続いています。

【把瑠都凱斗】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:把瑠都の本名と四股名の由来は何ですか?
A1:本名はカイド・ホーヴェルソン(Kaido Höövelson)です。「把瑠都」は母国エストニアが面するバルト海にちなみ、「凱斗」には日本で成功を収めて母国に凱旋してほしいという願いが込められています。

Q2:把瑠都はなぜ大関から陥落し、引退したのですか?
A2:2012年9月場所と11月場所で2場所連続の負け越しとなり、大関から陥落しました。2013年5月場所には左膝の前十字靱帯と半月板を損傷し、回復の見通しが立たなかったため、同年9月11日に引退しました。

Q3:把瑠都は2026年現在、何をしていますか?
A3:実業家やタレントなど、多方面で活動してきた人物です。2019年から2023年まではエストニアの国会議員を務めましたが、現在は現職議員ではありません。2025年には在エストニア日本国大使館が引退後の多方面での活動について公表し、日本の格闘技イベントへの出場も報じられています。

把瑠都凱斗は、エストニア出身の力士として日本の大相撲で大関に昇進し、2012年1月場所には14勝1敗で幕内初優勝を達成した実力者です。本名カイド・ホーヴェルソンに由来する「凱斗」と、母国のバルト海にちなむ「把瑠都」という四股名には、日本とエストニアを結ぶ物語が込められています。

一方で、大関陥落から2013年の引退までの経緯は、トップアスリートのキャリアがけがによって大きく変わり得ることも示しています。大関陥落は2場所連続の負け越し、引退は左膝の重傷が主な理由であり、両者を分けて理解することが大切です。

引退後は格闘技や芸能活動、実業家としての仕事に取り組み、エストニア中央党に加入して国会議員も務めました。2026年現在、政治家としての議員活動には一区切りがついていますが、相撲を通じて築いた日本との関係や、競技の枠を越えた活動が経歴の大きな特徴となっています。

把瑠都の現在を知る際は、現役時代の実績、引退理由、引退後の活動、そして国会議員としての在任期間を分けて確認すると、過去の報道と最新の肩書きを混同せずに理解できます。大相撲で残した優勝の記録と、母国に戻って新しい道を切り開いた歩み。その両方が、把瑠都凱斗という人物を知るうえで欠かせない要素です。

同じカテゴリの記事

土谷 亮平

プロ野球とサッカーを中心に、試合結果と選手コメントを公式記録で裏取り。数字は一次記録から拾うことを徹底しています。

おすすめの関連記事