五代目片岡我當(かたおか・がとう)は、上方歌舞伎の継承に尽力し、朗々としたせりふ回しと堂々たる舞台姿で知られた歌舞伎俳優です。本名は片岡秀公(かたおか・ひできみ)。十三代目片岡仁左衛門の長男として生まれ、1940年10月に初舞台を踏み、1971年2月に五代目片岡我當を襲名しました。
2026年現在、片岡我當は2025年5月11日に90歳で死去したことが公表されています。松竹の発表を受けた報道によると、死因は肺炎でした。歌舞伎俳優名鑑「想い出の名優篇」や日本俳優協会の公式情報をたどると、その生涯は一人の名優の歩みにとどまらず、上方歌舞伎の芸を次世代へつなぐ活動と深く結びついていたことが分かります。
【2026年最新情報】片岡我當は2025年5月11日に肺炎で死去

五代目片岡我當の訃報が公表されたのは、2025年7月17日です。松竹の発表を受け、日刊スポーツや読売新聞などの報道各社が、5月11日午後4時37分に東京都内の病院で肺炎のため亡くなったことを伝えました。享年90歳でした。
ここで押さえておきたいのは、亡くなった日と訃報が公表された日が異なるという点です。2025年5月11日に死去し、その事実が約2か月後の7月17日に明らかになりました。葬儀・告別式は、報道によると親族による密葬としてすでに執り行われていました。
また、片岡我當の最後の舞台は、2020年2月の歌舞伎座で上演された、父・十三世片岡仁左衛門の二十七回忌追善狂言『八陣守護城』です。晩年の出演歴を確認する際には、この最後の舞台と、死去が公表された2025年を混同しないことが大切です。
2026年現在、片岡我當本人の新たな舞台活動はありません。一方、日本俳優協会の公式名鑑や歌舞伎俳優名鑑「想い出の名優篇」には、その経歴や芸風、受賞歴が記録されています。現在の活動を追うというよりも、残された記録や上演作品を通じて、その芸と功績を振り返る段階にあります。
【本名・親子関係】片岡秀公と十三代目片岡仁左衛門のつながり
五代目片岡我當の本名は、片岡秀公(ひできみ)です。1935年1月7日、東京都に十三代目片岡仁左衛門の長男として生まれました。歌舞伎の名跡を受け継ぐ家に生まれ、幼少期から舞台の世界に身を置いた人物です。
父の十三代目片岡仁左衛門は、上方歌舞伎を代表する名優の一人でした。義太夫狂言をはじめとする古典の継承に力を注ぎ、上方の世話物などで深みのある演技を見せたことで知られています。我當も父から芸を受け継ぎ、父が演じてきた役の数々を自身の舞台で表現しました。
家族関係では、我當は二代目片岡秀太郎の兄であり、十五代目片岡仁左衛門の兄でもあります。十五代目仁左衛門は、現在の歌舞伎界を代表する立役の一人として知られる俳優です。片岡家の芸の継承を理解するうえでは、父から長男の我當へ、そして弟たちへと広がる家族と芸のつながりが重要です。
我當自身にも、歌舞伎俳優の片岡進之介という長男がいます。片岡家の系譜は、血縁だけでなく、師弟関係や舞台での役の継承によっても形づくられてきました。歌舞伎では家に伝わる芸を身につけ、先人が演じた役を自らの解釈で舞台に立ち上げることが、伝統を次の世代へつなぐ大切な営みとなっています。
ただし、歌舞伎の家系を調べる際には、親子関係と芸名の継承を分けて考える必要があります。片岡我當という名跡は歴代の俳優が受け継いできたものであり、歴代の名乗りがすべて直接の親子関係を意味するわけではありません。
【経歴・年表】1940年の初舞台から1971年の襲名、晩年まで
片岡我當の経歴を理解するうえで、大きな節目となるのが1940年の初舞台と1971年の襲名です。日本俳優協会の公式名鑑と歌舞伎俳優名鑑「想い出の名優篇」には、初舞台や襲名、受賞歴、海外公演への参加などが記録されています。
以下に、確認できる主な出来事を時系列で整理します。
| 時期 | 出来事 | 主な内容・意義 |
|---|---|---|
| 1935年1月7日 | 誕生 | 東京都生まれ。十三代目片岡仁左衛門の長男。 |
| 1940年10月 | 初舞台 | 大阪歌舞伎座で『近頃河原の達引』のおつるを演じ、片岡秀公を名乗る。 |
| 1971年2月 | 五代目片岡我當を襲名 | 大阪新歌舞伎座で『さくら時雨』の灰屋三郎兵衛、『二月堂』の良弁大僧正などを勤める。 |
| 1972年 | 重要無形文化財保持者に認定 | 総合認定による認定を受け、伝統歌舞伎の保存に関わる俳優としての歩みを重ねる。 |
| 1979年 | 海外公演に参加 | アメリカ公演に参加。 |
| 1988年 | 北米公演に参加 | カナダ・アメリカ・メキシコ公演に参加。ワシントン州名誉州民、カルガリー名誉市民となる。 |
| 1997年 | 台湾公演・文化功労賞など | 台湾公演に参加。同年、京都府文化功労賞などを受ける。 |
| 2005年 | 旭日双光章を受章 | 歌舞伎をはじめとする文化活動に長年取り組んできた功績が評価された。 |
| 2020年2月 | 最後の舞台 | 歌舞伎座の『八陣守護城』に出演。 |
| 2025年5月11日 | 死去 | 肺炎のため90歳で死去。訃報は同年7月17日に公表された。 |
1940年の初舞台は、片岡秀公という本名で芸の道を歩み始めた出発点です。その後、1971年に五代目片岡我當を襲名したことで、松嶋屋の名跡を担う俳優としての立場が明確になりました。
襲名時の演目にも注目したいところです。『さくら時雨』では灰屋三郎兵衛、『二月堂』では良弁大僧正を勤めており、複数の役を通じて新しい名を披露しました。歌舞伎の襲名は、単に名前を変更する儀式ではありません。先代や一門から受け継ぐ芸を観客に示し、その名にふさわしい役者として歩み始める重要な節目です。
その後も国内外の舞台で活動し、受賞や文化的な顕彰を重ねました。こうした経歴を通して見ると、我當は幼少期から舞台経験を積み、襲名後も長く古典芸能の現場に立ち続けた俳優だったことが分かります。
【代表的な役と芸風】義太夫狂言から新歌舞伎まで幅広く活躍
歌舞伎俳優名鑑「想い出の名優篇」は、片岡我當について、明快な芸風と堂々とした舞台姿を持ち、義太夫狂言から新歌舞伎まで幅広い役柄で本領を発揮した立役と紹介しています。
立役とは、歌舞伎で主に男性の役を演じる俳優を指します。我當の特徴は、声のよく通る朗々としたせりふ回しに加え、人物の複雑な感情や人間味を、落ち着きのある演技で表現したことにありました。
特に重要なのが、父・十三代目片岡仁左衛門から受け継いだ役です。代表的なものには、次のような演目があります。
- 『近頃河原の達引』の猿廻し与次郎:素朴な人物の人情をにじませる演技が持ち味となった役。
- 『沼津』の平作:親子の情や人物の内面を深く描く、義太夫狂言の重要な役。
- 『新口村』の孫右衛門:世話物ならではの人情表現を生かした役。
- 『仮名手本忠臣蔵』九段目の加古川本蔵:複雑な立場にある人物の心情を表現する役。
- 『熊谷陣屋』の弥陀六:物語の背景や人物の思いを踏まえた表現が求められる役。
- 『輝虎配膳』の長尾輝虎:義太夫狂言における人物の性格や心理を表現する役。
これらの役に共通するのは、派手な動きだけでは伝わらない人物の背景や心情が、演技の説得力を左右することです。我當の芸は、せりふの明瞭さや堂々とした存在感を土台にしながら、人物の内側にある情を表現するところに特色がありました。
一方、我當の芸域は上方歌舞伎だけにとどまりません。若い頃には二代目尾上松緑に師事し、江戸歌舞伎の荒事も学びました。『車引』の梅王丸なども演じており、上方の世話物や義太夫狂言とは異なる、力強い表現にも取り組んでいます。
新歌舞伎では『修禅寺物語』の夜叉王や『将軍江戸を去る』の山岡鉄太郎などを勤めました。古典の型を守るだけでなく、作品や役柄に応じて表現の幅を広げたことも、我當の経歴を語るうえで欠かせない要素です。
【上方歌舞伎への功績】若手育成と観客層の拡大に尽力
片岡我當の功績は、優れた舞台を見せることだけではありません。上方歌舞伎の継承に取り組み、次の世代の俳優を育て、歌舞伎に触れる観客を増やす活動にも力を注ぎました。
歌舞伎美人の追悼記事や歌舞伎俳優名鑑「想い出の名優篇」によると、我當は「上方歌舞伎会」などを通じて若手俳優の指導に携わりました。また、関西で学生を対象とした歌舞伎鑑賞教室を長年にわたり行い、伝統芸能を初めて見る人にも舞台の魅力を伝えてきました。
この活動には、上方歌舞伎を将来へつなぐうえで重要な意味があります。古典の上演を続けるには、熟練した俳優だけでなく、演技を学ぶ若手、作品を支える関係者、そして劇場に足を運ぶ観客が必要です。演目や型を次世代に伝えることと、新たな観客に舞台を知ってもらうことは、伝統芸能を維持するための両輪です。
学生向けの鑑賞教室は、歌舞伎に接する機会が少ない世代にとって、実際の舞台に触れる入口となります。歌舞伎のせりふ回しや様式、物語の背景を知ることは、作品を楽しむための土台にもなります。我當の活動は、舞台に立つ俳優としての仕事と、歌舞伎文化を次へ渡す仕事がつながっていたことを示しています。
また、1979年のアメリカ公演、1988年のカナダ・アメリカ・メキシコ公演、1997年の台湾公演にも参加しました。海外公演は、日本独自の舞台芸術を国外の観客に紹介する機会でもあります。長年の舞台経験を国内だけにとどめず、国際的な公演にも生かしたことが分かります。
受賞歴では、1971年の大阪府民劇場奨励賞、1972年の重要無形文化財保持者(総合認定)への認定、1984年の歌舞伎座優秀賞、1997年の京都府文化功労賞、1998年の第17回真山青果賞大賞、2005年の旭日双光章などが確認できます。これらは、我當の歩みを舞台活動と文化への貢献の両面から捉える手がかりとなります。
【歴代の名跡・松嶋屋・定紋】片岡我當という名前の意味
片岡我當を調べる際には、五代目本人の経歴と、歌舞伎の名跡としての「片岡我當」の歴史を区別すると理解しやすくなります。
歌舞伎の名跡とは、代々受け継がれる芸名のことです。俳優は襲名によって名跡を継ぎ、その名前に結びついた芸や役柄、家の歴史を背負います。「片岡我當」も、一人の俳優だけを指す固有名ではなく、複数の世代が受け継いできた名前です。
名跡の歴史をたどると、初代片岡我當は七代目片岡仁左衛門の養子となり、後に八代目片岡仁左衛門を襲名した人物として知られています。辞典類では、初代から四代目までの我當の名乗りも、八代目・九代目・十一代目・十三代目の片岡仁左衛門へとつながる系譜の中で説明されています。
つまり、片岡我當と片岡仁左衛門は、名跡の歴史においても深い関係があります。ただし、歴代の名跡の継承は養子縁組や芸名の襲名などを含むため、単純に同じ家の実子が順番に同じ名前を名乗ったという理解では不十分です。
五代目片岡我當の屋号は松嶋屋です。屋号は歌舞伎俳優の家や一門を示す呼称で、舞台での掛け声にも使われます。名跡と屋号は別の要素ですが、どちらも俳優の所属する芸の系譜を知る手がかりになります。
定紋は七つ割丸に二引です。定紋は、その家や俳優を象徴する紋として用いられます。また、片岡家に伝わる紋として、追っかけ五枚銀杏も知られています。紋は舞台衣装や家の伝統を理解する際の手がかりとなり、名前と同様に、歌舞伎の歴史を視覚的に伝える要素です。
このように、五代目片岡我當を理解するには、本人の芸歴だけでなく、松嶋屋という屋号、定紋、歴代の名跡が形成してきた歴史を合わせて見ることが重要です。
【片岡我當】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:片岡我當の本名と生年月日は?
A1:五代目片岡我當の本名は片岡秀公(かたおか・ひできみ)です。1935年1月7日に東京都で生まれ、十三代目片岡仁左衛門の長男として育ちました。
Q2:片岡我當はいつ、何歳で亡くなりましたか?
A2:2025年5月11日午後4時37分、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。90歳でした。松竹の発表を受け、訃報は同年7月17日に公表されました。
Q3:片岡我當の初舞台と襲名はいつですか?
A3:1940年10月、大阪歌舞伎座で『近頃河原の達引』のおつるを演じ、片岡秀公を名乗って初舞台を踏みました。1971年2月には大阪新歌舞伎座で『さくら時雨』や『二月堂』などを勤め、五代目片岡我當を襲名しました。
Q4:片岡我當と十五代目片岡仁左衛門の関係は?
A4:十五代目片岡仁左衛門は、我當の弟です。二人は十三代目片岡仁左衛門の息子であり、松嶋屋の芸を受け継ぐ兄弟にあたります。
Q5:片岡我當が上方歌舞伎に残した功績は何ですか?
A5:舞台で上方歌舞伎の芸を体現したことに加え、上方歌舞伎会などで若手俳優を指導し、関西の学生向け歌舞伎鑑賞教室にも長年取り組んだことです。伝統の継承と観客層の拡大に尽力しました。
五代目片岡我當は、本名を片岡秀公といい、十三代目片岡仁左衛門の長男として1935年に生まれました。1940年の初舞台から1971年の襲名を経て、義太夫狂言や新歌舞伎など幅広い分野で活躍し、堂々とした舞台姿と朗々たるせりふ回しで観客を魅了しました。
2025年5月11日に肺炎のため90歳で死去しましたが、その功績は舞台上の演技だけにとどまりません。若手俳優の育成や学生向けの鑑賞教室を通じて、上方歌舞伎の伝承と観客層の拡大に取り組んだことも、後世に残る大切な仕事です。
片岡我當の足跡を知るうえでは、日本俳優協会の公式名鑑で生涯の節目や受賞歴を確認し、歌舞伎俳優名鑑「想い出の名優篇」で代表的な役や芸風をたどることが有効です。加えて、歴代の名跡や松嶋屋の系譜を知ることで、個人の経歴を超えた歌舞伎の伝承の仕組みも見えてきます。
名優が残したものは、過去の舞台記録だけではありません。先人から受け継いだ役を演じ、若手に芸を伝え、次の観客へ歌舞伎の魅力を届ける。その積み重ねこそが、片岡我當の歩みを振り返るうえで見落とせない価値です。